基本情報
- 書籍|文庫判(A6)
- 286ページ
- 700円
- 初版2015/05/04(月)発行
あらすじ
新人類(Neo Human Being)。それはある国立研究機関によって生み出された生物兵器であり、その被験体となるのは行き場を失った若者達だった。彼らはヒトの姿をしているが、体内に植えつけられた特殊な細胞を覚醒させることで超人的な力を発揮する。
N.H.B(Neo Human Being)の一人である皇穂稀(スメラギ ホマレ)。彼女もまた不本意に生物兵器となった身である。しかし、研究所に拘束され一年が経とうとしていたとき、彼女に脱出するチャンスが訪れる。果たして穂稀は無事に研究所から抜け出すことができるのか。できたとして、冷たい現代社会でヒトとして生きていくことができるのか。
社会の闇と「生」の意味に焦点を当てた、バイオ系バトルアクションSF小説。
序章(試し読み)
西暦20XX年、日本太平洋南部、白い外壁の研究所が立ち並ぶ孤島にて――。
「近寄るな……」
黒金の壁に飛び散る迷彩のような黒い血。
ひび割れたタイルの上で、深傷から濁った血を流して横たわる奇怪な死体の山。質素な部屋に嗅覚を貫く臭いが充満する。
骸は人の形をしているが、鼻は小石のように丸く、歯は牙と言ってもいいほどギザギザしている。耳は三角に変形していて、全身に茶色の毛を生やしている。
生き残っている数人が四つん這いになって「ワン」と喚く。まるで犬のように。いや、その風貌から犬そのものと言っても過言ではない。眉間にくしゃくしゃの皺を寄せ、理性なく吠える彼らの先に一人の娘がいた。
年は二十歳ぐらいだろうか。艶のある短い黒髪。真珠のような気品ある白い肌。凛とした小顔と淡い桜色の唇。背丈は女性の平均程度だが、読者モデルにもなれそうな美麗な脚をしている。
その特徴とは裏腹に目つきは刀身のように鋭く、気弱な者ならばその眼光を浴びただけで怖気づいてしまいそうなほどだ。
彼女が身につけている看護服のような白シャツとパンツには黒ずんだ血がびっしり付着している。年頃の娘らしい柔らかく張りのある両手は肌色の存在を許さないほど赤に染まっている。
「いつまでこんなことを……」
憂いを帯びた黒き瞳を光らせ彼女は呟く。
犬なのか人なのか、どちらとも言えない風貌の青年たちが威嚇の鳴き声をあげて牙を剥く。彼らは獲物を追い詰めるように彼女を囲い込む。
彼女の髪が徐々に金色に染まっていく。皮膚に浮き出た血管が、上昇していく体温と共に灼熱の赤へと変色していく。瞳はそれよりもさらに濃い紅蓮に染まる。
犬男たちと比べると彼女は十分人の娘の姿を保っているが、滲み出るオーラには気高い野性の本能と殺気が滲み溢れている。
風貌を変化させた彼女と青年たちは互いの様子を窺い、黙ったまま対峙する。
彼女は重たい溜息をつく。気が碇のように重い。何の罪もない同じ若者を殺すのは。同胞を痛めつけるのは。人間の姿ではないといっても、彼らは間違いなく正真正銘の人間だった。好きでこんな姿になったわけではない。行き場を失った若者たちの傷心を手玉に取ったエリートたちの実験材料にされているだけだ。
無論、彼女もその一人だった。
犬のDNAが配合された、ある特殊な細胞を組み込まれた青年がそっと前足を踏み出す。
彼女の耳は二センチ床を擦ったその足音を聞き逃さなかった。紅の瞳孔が収縮する。
「死ねぇっっっっ!」
と、聞こえなくもない犬の雄叫びをあげて青年たちが一斉に飛びかかる。
それに反応して、彼女の光沢ある爪が急激に十センチほど伸び硬化する。両手十本の長爪は触れるものを切り裂く刃と化す。
彼女は犬男たちの勢いに怯むことなく、放たれた矢のごとく真正面にいる敵に向かって突撃していく。
彼女が脇をすり抜けると、彼らの腹部が鮫の大口のように切り開かれる。そこから噴水のように濁った血と褐色の臓物が放出される。
無残に倒れた同族の骸を見て、彼女の後ろにいた犬男たちは反射的に足を止める。
赤き潤いを取り戻した両手を下げたまま、紅色の双眸を収縮させた彼女が振り返る。
洋弓のような背筋、年頃の娘らしい小顔とうなじ。猛獣の瞳と敗者の返り血がなければ、見返り美人を思わせただろう。
「素晴らしい」
天井の四隅に設置されているスピーカーから中老の男声が零れる。
声を耳にした彼女は顔を顰める。その隙を狙うように、生き残った四人の青年が野性の生存本能を滲ませて飛びかかる。
彼女の心臓が大きく鼓動する。自身に組み込まれた誇り高き獣の遺伝子も、生存本能を覚醒させる。駆け巡る血液がマグマのように体温を急上昇させる。
犬男たちより何倍も速いスピードで幻影のごとく彼らの間をすり抜ける。
「さすがはライオンのDNA。圧倒的な速さとパワー、そして精神力。途方もない数の実験を重ねてきた甲斐があった」
スピーカーから独り言が漏れる。
天然の凶器で脇腹を切り裂かれたに人の犬男が、断末魔の叫びすらあげることなく冷たい床に伏す。
「やはり犬ごときでは雌獅子の相手は務まらなくなってきたか」
彼女は残っている片方の青年の片脚を掴み、バットを振り回すようにもう片方の青年に叩きつける。とてつもない握力で掴まれた青年の脚は捻じれ、皮の下で膝の関節が外れてゴム状態になっていた。
「いや――。気高さ、高貴さ、力強さ。その全てを兼ね備えているならば、こう称するべきか」
叩きつけられた青年が動けなくなると、雌獅子は手にしていた犬男を固い床に渾身の力を込めて叩きつけた。
頭蓋骨は皮の内部で粉砕され、折れた牙とタイルの破片が舞う。傷めつけられた内臓から沸き上がってきた血液が口から躍り出る。
「【百獣の女王】、とな」
そう称された彼女の五本爪が、床で悶えていた青年の背中を貫き終止符が打たれた。
思わず顔を顰めたくなるような獣臭い血の香りが沸き立つ。
「失せろ、犬共……」
女王は骸にそう吐き捨てると、両手から敗者の血液を滴らせて佇んでいた。爪は収縮し、金の髪と紅の瞳は大和撫子を思わせる黒色を取り戻し、血管も青白さを取り戻した。
戦闘が終了したのだ。
外見だけなら特に変哲もない、至って普通の人間の娘だ。
女王は我を取り戻したように、肩で息をする。なるべく血の臭いを取り入れないように。
体内を熱く駆け巡る獣王の遺伝子が落ち着きを取り戻し、体温が低下し始めると錘が伸しかかったように疲れが出る。少し休めばすぐに回復する程度のものだったが、正常心に戻った彼女はこの感覚が大嫌いだった。
獣の心が静まっても、唯一変わらない鋭利な目つき。女王は天井隅のスピーカーを冷たく一瞥する。
「これからの成長がますます楽しみだ」
男は満足気に独り言のような、我が子に語りかけるような口調で喋る。道を踏み外した賢者にしかできない、狂気のプロジェクトを企む笑声が血みどろの部屋に響く。
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