『二人のマヤ』【二重人格系ヘビメタ小説】

サークル作品
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基本情報

  • 書籍|文庫判(A6)
  • 142ページ
  • 500円
  • 初版2022/04/17発行

あらすじ

 20代半ばのOL、浅雛麻耶(アサヒナ マヤ)。業務委託先の担当者のパワハラによって、彼女は人生で初めて心療内科を受診し、適応障害の診断を受けて休職してしまう。大好きなヘビーメタルの音楽やカラオケも、麻耶の傷を癒すことはできず、3日間ベッドで横たわる。
 ある日、目を覚ますと体が幽体離脱し、自分の体は「もう一人のあなた」と名乗るペルソナ(もう一人のマヤ)によってコントロールされてしまう。生真面目で固い性格の麻耶と、明るく破天荒な性格のマヤ。彼女たちは喧嘩や対話を通しながら、浅雛麻耶がもう一度自分と向き合い、堂々とした復職を目指していく。


「メタルが大好きだ。聴いているだけじゃ物足りない。歌いたくて堪らない」


 目覚める鋼鉄の魂が、麻耶の人生を大きく突き動かす。文で音楽を奏でる、二重人格系ヘビメタ小説。

序章(試し読み)

「見る気失せた」

 全身に脂の装甲。今にもワイシャツのボタンが弾けそうな程丸々と太った、五十路の男がA3の用紙を投げ捨てる。彼の目の前で立たされている二十代半ばの会社員、浅雛麻耶(アサヒナ マヤ)の顔は俯いている。

「いつまで経っても、何度教えても本当ダメな奴だな、お前」

 彼は鼻で笑うと、麻耶の先輩にあたる社員が反論する。

「本日の納期です。ちゃんとチェックしてください」

「こんないい加減な図面見る気になるか」

 先輩社員が床に落ちた図面を拾い、目を通す。三十代前半のまだ若い肌にも関わらず、みるみる眉間に皺が寄せられる。

「この図面のどこにおかしいところがあるんですか? そもそも、見る気ないって――」

「ズレてるところがあんだろうが。そんなことも分かんねぇのか、お前は」

 怒声を飛ばした後、彼はペンで紙に殴りつけるように赤丸をつける。

「いや、こんなのズレてるって言わないですよ。誤差の範囲です。他のメンバーが作成した物も、これくらいの誤差はありますよ」

 大阪を代表するビジネス街の一つ、本町。高層オフィスビルに入っている建築関係の会社の中。その中にある、窓のない閉鎖された狭い執務室に、肥満体型の奈部昌一郎(ナベ ショウイチロウ)の怒号が鳴り響く。大声は部屋の外にずらっと並んでいる他部署の人間にも、薄っすら聞こえていることだろう。

 室内にいる6名のメンバーは、押し黙っている。彼らは奈部の部下ではない。会社も違う。いわゆる業務委託というやつだ。アウトソーシング事業を行っている会社の社員であり、この場所に構えている会社の社員ではない。奈部は違う。彼はここに入っている会社の社員であり、麻耶たちにとってはお客様ということだ。物に当たろうが、暴言を吐こうが、お客様だ。奈部の勤める会社は新規顧客なので、何を言われても大事にしなければならないそうだ。客先の担当者が、奈部のような人物でも大事にしなければならないそうだ。人前で怒鳴りつけ、特定の個人を攻撃しても、お客様だから大事にしなければならないそうだ。

 奈部は自身の巨体が重たいと言わんばかりに、のっそり立ち上がる。

「どちらへ行かれるんですか?」

「帰るよ。18時だろ、今」

「いや、だから本日納期の図面チェックがまだ――」

「それ、勝手に提出しないように。それじゃ」

「え」

 その日、浅雛麻耶は担当している案件の期日を守ることができなかったとされ、提出先である営業部の担当者に謝罪の連絡を入れる。翌日も。翌々日も。成果物そのものは問題ない又は微修正すれば完璧なのにも関わらず、全て奈部の機嫌と気分次第で、提出できるかできないかが決まる。

 

 一週間先も。

 

 二週間先も。

 

 ある時から、麻耶は朝起きると吐き気を催すようになった。大好きなパンを腹に入れると、逆流するようになり、すぐにトイレに駆け込むようになる。ブラックコーヒーを飲むと、強いカフェインの香りが胃を刺激し、パンを食べていなくても胃から液が逆流するようになる。

 麻耶は一人暮らし。強いストレスを減らそうと、音楽を聴き、休日に友人と出かけても一向に症状が良くならない。もし両親と同居していたら、こんなに弱々しくやつれた姿は絶対に見せたくない。学生時代、勉強が分からなくて落ち込んでいても、いじめを受けていてもずっとその気持ちを隠し通してきた。心配をかけたくない。期待外れだと思われたくない。人の期待に応えることをモチベーションにして、関西の上位大学に合格する。新卒では全く将来性を感じられない会社に入ってしまったため、多忙の合間を縫って転職活動を行い、興味のある職種に就くことと年収アップを勝ち取ることに成功する。残業はそれほど多くなく、土日祝が休みだ。会社携帯を常時持たされ、帰宅後も容赦なく電話がかかってくるような前職とは大違いだ。福利厚生が遥かに良くなった。

 それなのに、転職後たった半年で、どうしてこんなにも体に異変が起こっているのだろうか。過去、陰湿ないじめや激しい受験戦争を経験して乗り越えてきているのに、体が言うことを聞かない。彼のことが気持ち悪すぎて、胃が入ってきた食物を押し返している。暑い季節でもないのに、夜中に何度も目が覚める。夢の中にまで、脂の塊みたいな奈部の怒鳴り声が聞こえるようになる。何とかこの状況を改めようと、「ストレスの減らし方」とネットで検索する。早寝しているのに、二時間毎に目が覚める。他にもストレス軽減のために、色んなことを試す。石橋を叩いて壊してしまうタイプの自分だからこそ、今回ばかりは即行動を実践する。ウォーキング、アロマ、観葉植物、瞑想、深呼吸。それでも、毎朝吐き気は止まらず、睡眠は安定しない。化粧は毎日していくが、目の下にはいつの間にか、ごまかせないほど濃いクマができていることに気づく。

 業務では正しいこと正しい手順で実践をしていても、皆と全く同じ仕事をこなしていても。なぜ自分だけが理にかなっていないことや、すぐに修正できることで罵声を浴びせられているのか。皆の前で立たされて、怒鳴り散らされているのか。

「お前は仕事ができない。給料泥棒だ」

「女として愛嬌がない。どうせ結婚もできないだろう」

「残念な奴。今までもしょうもない仕事しかしてこなかったんだろ」

 浅雛麻耶は、人生で初めて心療内科の受診を決意する。不幸中の幸い、仕事は今現在も完全週休二日制で、土曜日に受診を行っている病院に駆け込む。話したいことが上手くまとまっていない状態で訪れたが、心療内科の先生は親身に話を聞いてくれる。実際に体に起こっている症状を伝えると、処方箋を書いてくれる。心を落ち着かせてくれる薬を出してくれる。初めての薬に、麻耶は少なからず緊張したが、今はできることは何でもしてみたいと薬局に向かう。代金と引き換えにクロチアゼパムという名の薬を受け取る。筋肉のこわばりを和らげ、不安や緊張を和らげる効果があるらしい。

 一週間半又は二週間に一回の、通院生活が始まる。後に知ったことだが、心療内科とカウンセリングは役割が違うらしい。前者は薬物療法や精神療法等による治療を目的とし、後者は悩みの相談や解決を目的としているのだとか。白を基調とした清潔感ある待合室は、常に多くの人で席が埋まっている。ここが梅田という大阪の中心地ということもあるが、これだけ大勢の人の悩みを数分で聞き、その間に解決するのは不可能だろう。最初は心療内科を訪れること自体、何となく負けたような気になっていが、通院することは特別なことでも何でもないとある種の安堵感を覚える。変化の激しい時代、他の人も体調を崩すほど辛い悩みを持ち合わせているのだろう。

 薬の副作用で業務中、支障のない程度の眠気は出るが、朝の吐き気は和らいだような気がする。

 業務においてもリーダーが、麻耶と奈部とで直接関わることのないよう、行動を起こしてくれる。そもそも、この業務は業務委託という形態で仕事を請け負っている。業務委託は仕事を請け負うという点では派遣と同じだが、業務委託契約では業務担当者に指揮命令するのは客先ではなく、請負会社自身である。要は、奈部がリーダーではない浅雛に対し、直接指示を出すのは本来違反である。

 リーダーのおかげで、奈部はプロジェクトチームの執務室から、外にある自分のデスクへと席を移動することになる。プロジェクト実績の月次報告の際に、強く進言してくれたのだろう。また、奈部の確認が必要な事柄は、リーダーを通して内線で行うことになる。

 執務室に平穏が訪れる。リーダーだけは奈部というモンスタークライアントの相手をしなければならないが、業務に関しては大ベテランだ。他のメンバーも、奈部が居座っていたときの空気の悪さから解放されて、いい意味で表情が綻ぶ。固く強張っていた麻耶の肩の力も抜ける。ようやく業務に集中できる。

 その平穏は、僅か一週間で掻き消される。

「おい、この図面書いたのは誰だ」

「近くにいるんだから、直接話した方が早いだろ」

「内線かけるの面倒くさい」

 そう言って、結局奈部は強引に執務室に転がり込み、豚のように丸まった体躯で腰掛ける。変形するオフィスチェアのメッシュの座面が、可哀想に思える。

 状況は振り出しに戻る。いや、一度執務室から追い出された腹いせか、以前より攻撃性が増している。奈部が指示したことを忠実に行っても、チェックの際にはいちゃもんを付けられ、業務を妨害される。こんなことが毎日のように罵声と共に行われ、麻耶はもう薬を飲んでいても、朝だけでなく業務中にも嘔吐するようになる。奈部が直接関与しない業務でも、何が正しくて何が間違っているのか判断ができなくなり、リーダーにも毎日注意されるようになる。夜はベッドに入っても、一時間毎に目が覚めるようになり、熱はないのに真っすぐ歩いているような気がしない。平衡感覚を失っているような気がする。

「浅雛さん。休職、しましょう」

 心療内科の診察で、医師にそう言われた。麻耶は休職とはどういうものかあまり理解できていなかったが、とりあえずお金を払って、診断書というものを発行してもらう。医師の診断によると、今回の症状は適応障害と呼ばれるものらしい。翌日、それをリーダーに封筒のまま提出する。すると、そのさらに翌日、本社の人事部に呼び出され、休職に関する説明を受ける。それが終わってから即休んでくれと言われる。麻耶はそのとき初めて、自分が適応障害というメンタルの不調で会社を休むという実感を得る。休職期間は1カ月。

 本社から自宅へ帰った浅雛麻耶は、空っぽの心のまま、スーツのままベッドにうつ伏せになった。

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